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親父(おやじ)

錬心舘大阪・築地道場のHPより引用しました。

錬心舘空手道を通した親子愛に涙しました。是非とも、お読みください。

親父

今回、このページを作成するに当たって、叔父、叔母に協力して頂き、また、母から聞いた話と、私が小学生だった頃の記憶をたどって「アップ」させて頂きました。

 

私の「父」は、昭和12年9月4日 鹿児島県 阿久根市に生まれました。

当時、祖父は阿久根市で「時計」の修理を専門とする「築地時計店」を営んでいました。長男として生まれた「父」は祖父の店を継ぐために、中学卒業と同時に北九州の「小倉」という街に「丁稚奉公」(商売をしている他人の家で修行すること) をすることになりました。

 

4年間の修行を終え、一人前の「職人」に成って阿久根に帰った時、祖父の店は潰れていました。

 

「俺は、何のために今まで辛い思いをして修行してきたんだ!」

 

父はそれから、毎日遊びほうけ、ケンカに明け暮れていました。

ある時、自分より大きな相手にコテンパンにやられて、

「ケンカ」に強くなるためには「空手」しかないと思い、あっちこっちと空手の道場を探し廻っていました。

 

そんな時、鹿児島市の高麗町に空手の道場があると聞いて尋ねて行ったのが、

父が「錬心舘」の空手を始めるキッカケとなりました。

昭和31年 父が19歳の時でした。

 

「先代御宗家」から入門を許され、父の「空手修行」が始まりました。

最初は、ケンカに役に立ちそうな技を覚えて、さっさと止めてしまうつもりだったのです。

そんな矢先、鹿児島市にある「山形屋」というデパートの時計店に就職が決まり下宿をしながら生活をして、仕事が終わった後に、毎日道場へ通っていました。

 

最初はただ、ケンカに強くなるための「空手」だったはずが、先代御宗家を始め、先輩方の人柄と、その「空手」の「技」に魅了されて、どこかいつも、ふて腐れて見えた父が「人間的」にも見る見るうちに変わっていったと言います。

 

ここで母から聞いた話をします。

 

昭和34年に母は父と知り合いました。

当時下宿先の裏庭に「巻き藁」を立てて毎日突きの練習をしていました。

確かに父の両手には、見てそれとわかる大きな「拳ダコ」がありました。

この時期、他流の試合にも積極的に出ていたそうです。

おそらく昭和35年に福岡で行われた試合に父も参加しているはずです。

 

黒帯に昇段したと同時に、「山形屋・空手部」を発足、父が指導員としてデパートで働く社員を集め空手を指導していました。

 

ここで、私が昔、父から直接聞いた修行時代の話をそのまま「羅列」して行きたいと思います。

 

・保先生は本当にやる気のある者にしか「入門」を許さなかった。

・当時の「型」の稽古は、保先生がよしと言うまで、同じ動作の反復練習を何時間でもやらされた。

・当時の組手は「時間制」など無く、どちらかが参ったを言うか、保先生の「それまで!」の声が掛かるまで、延々と続けられた。

・「組手」の相手が自分より下で、構えずに組手をすると、保先生はカミナリを落とした。

・当時の組手は足払いや、相手の手や足を持って倒してもよかった。だから持たれないように「突き」「蹴り」の速さを磨いた。

・畳三畳ほどのスペースで組手をさせられるのが、怖くもあり、おもしろくもあった。

・当時の、保先生は40歳前後で弟子を相手にバンバン組手の稽古をつけていた。

・誰一人、保先生に技を決めることは出来なかった。

・保先生は小柄な人だったが、内から発せられる「気」が凄かった。

・保先生は話しをするのが、とても上手だった。

 

私が覚えているのは、これぐらいです。

 

そして、父から直接聞いた「先代御宗家」の逸話をお話したいと思います。

 

父が弐段に昇段した頃、「先代御宗家」が直接稽古をつけて下さる機会があったそうです。

父もかなり自分の「空手」に自信を持ち、少し「天狗」になっていた時期だったと話していました。

 

「築地くん、私を倒すつもりで、本気で掛かってきなさい!」

 

そう「先代御宗家」から言われ、父も自分自身がどれだけ強く成ったか知りたかったし、保先生がどれぐらい強いのか知りたかった。

本気で掛かって行った瞬間、襟首を持たれ、そのまま床に引きずり倒されて目をあけたら鼻先1センチくらいのところに、保 先生のエンピ(ヒジ)が止まっていた・・・

 

そう話していました。

 

とにかく「父」の口癖は、保先生は強かった!でした。

 

「山形屋・空手部」も順調に行きだした頃、「父」は私の「母」と知り合いました。

母は、よくおにぎりなどを作って「空手部」のみなさんに差し入れをしていたそうです。

 

昭和37年に母と「結婚」し転職の為、大阪府高槻市に移り住みました。

 

その時、就職した「広島硝子」と言う会社で「空手部」を発足、この時、父は参段に成っていました。

 

叔母の話によるとその当時、頻繁に大阪と鹿児島の道場を行き来していたそうです。

 

そして昭和38年7月に鹿児島市にある「鴨池体育館」という場所で、大きな大会があったそうです。母は出産の為、鹿児島の実家に帰っており、応援に来ていました。

もちろん父も、この大会に出場し「入賞」して(何位かは不明)、賞状を持って帰りました。

 

母を先代御宗家も良く存じ上げていて、

「大きなお腹でご苦労さんだったねぇ!」と、そのときお声をかけて頂いたそうです。

 

その大会の一ヵ月後、私が生まれました。

正確には「私と姉」が生まれました。

 

私は「男と女」の「双子」として、この世に生を受けました。

 

ここで叔父から聞いたお話をします。

 

この昭和38年の5月頃、「南日本新聞」に先代御宗家が父の「後ろ廻し蹴り」を誉めていただいた記事が載っていたそうです。

 

兄弟でちょっとした騒ぎになったことを覚えていると話していました。

 

私は何としてでもその「記事」を探し出すつもりです。

 

それから一年が過ぎ、父は四段に昇段し、「師範」と成りました、父が27歳の時でした。

 

会社の「空手部」にも人が集まり始め、宗家直轄「高槻南支部」となり正式な支部になりました。

私は当時小学生だったせいもあって、空手部の人たちに本当に可愛がって頂きました。

大人に混じって小学生は私1人だったからです。

会社の空手部の為、子供は入ってはいけないことになっていました。

私は父のオマケとして一緒に稽古させてもらっていたのです。

 

今から思うと、当時は独特の空手の稽古を行っていたように思います。

 

基本は、「空間突き」「前蹴り」「足刀」の三つだけ、この当時、「四股突き」「拳手法」は存在していませんでした。

後は「前進後退」と「約束組手」。

 

「型」も初段になるまで「半月」(セーサン)のみ、色帯も、白、緑、茶、しかありませんでした。

 

現在、私が「豊島北」「大池」で白帯にマジックで線を入れて行くのは、この時の父の指導方法をそのまま取り入れています。

 

「空間突き」が出来て一本、前蹴りで二本、足刀で三本、・・・・・五本入ると「型」の稽古へ・・・

 

一つ基本が出来るようになると、父は黒の「マジック」で白帯に線を入れていました。

 

そして、常日頃から「半月」の型をしっかり覚えるように!と言っていました。

この「型」が一番大切だ!とも言っていました。

 

そして「黒帯」に成ってから「アーナンクー」「ワンシュウ」を教えていました。

 

続いて「組手」ですが、当時は足の甲で蹴る技など無く、上足底(足の裏にある指の付け根)で蹴るように指導していました。

 

今のように「キックミット」などは無く、コンクリートの壁に上足底を当てる練習を毎日するようにと、生徒のみなさんに言っていました。

 

それともう一つ、父が作ったオモシロイ器具が置いてありました。古いタイヤを切ってそれを扇のような形にし、針金で太い鉄の棒に巻きつけ、下はコンクリートの重しを付けた器具です。

 

そのタイヤの切れ端に向かって、皆さんが、「後ろ廻し蹴り」を当てて振り切る練習をしていました。

 

父は上段を蹴ろうとする人には、必ず注意をしていました。

 

「もし、バランスを崩したらどうする!持たれてひっくり返されたらどうする!道場ではまってくれても、実戦ではまってはくれんぞ!」

 

そう言っていました。

 

「蹴り」は首から下、上段は「突き」と「螺旋手刀打ち」当時の組手にはそういった「不文律」がありました。

 

私がここで、父の「空手技術」を云々するのは、あまりにもおこがましいとは思うのですが、あえてお話させていただきます。

 

とにかく、父の「蹴り技」は早かった。「足刀」「後ろ廻し蹴り」「三日月蹴り」私は子供心に、どうやったらあんなに早く、蹴りが出せるようになるのだろう・・・と想っていました。

 

父が35~36歳の頃だったと思います。

 

組手のときの構えも、ハッキリ覚えています。

 

手刀受けの形から拳を握り、前の拳を絞り込むように内側に向けるのが、父の組手のときの構えでした。

 

父の話で、大変興味ぶかかったことは、

「組手の構えを見ると、おおよそどこの流派の構えなのか見当がつく」と話していたことです。

 

昔は、「各流派」の構えと言うのが統一されていたのでしょうか・・・・?

 

当時、今でいう「廻し蹴り」というものはありませんでした。前蹴りと廻し蹴りの間の角度から上足底で蹴り込む「三日月蹴り」を、みなさんが多用していました。

父はこの蹴りを「前蹴り」と呼んでいました。

 

結局、父から空手の技で「廻し蹴り」という言葉を聞くことは一度もありませんでした。

 

当時の先輩方から言われたのが、

 

「シンゴ!お父さんのような「後ろ廻し蹴り」が出来るようになれ!」

でした。

父は体重の軽い人、体の小さい人には「フットワーク」を使うように指導していました。

 

私は相変わらず、「空間突き」「前蹴り」「足刀」「前進後退」の日々が続いていました。

 

私の帯にも五本の線が入り、やっと「型」の稽古に入らせてもらったのが「小学校五年生」の頃です。結局、私は父から「セーサン」の型しか教えてもらっていません。

 

一般の「黒帯」の方々にコッソリ「アーナンクー」と「ワンシュウ」を教えていただきました。

 

私が一級に昇級した「中学一年生」の頃、父が勤める会社の本社がある、広島の工場が閉鎖されることとなり、大阪工場もそのあおりを受け、父は転職を余儀なくされました。

 

母と私たち「姉弟3人」を養って行く為、大阪市内にある運送会社に再就職することになりました。父は39歳に成っていました。

 

朝早くから、晩遅くまでの勤務となり、とても空手を指導する時間的な余裕も無くなり、やむなく、「錬心舘」を休会することになりました。

 

それからというもの、とにかく父は働き続けました。

日曜、祝日などは関係なく、父が仕事を休んでいる姿を見ることは、ほとんどありませんでした。

 

ここで、父の「性格」についてお話させてください。

 

父は、私とは全く違う性格で、普段はおとなしく朴訥とした感じでした。

私のキャラクターは母からの遺伝子を受け継いだものと想われます。

 

父は「礼儀作法」にとても厳しく、特に目上の人に対しての言葉づかいや、食事のときの作法を私達は徹底的に教え込まれました。

姉弟三人、常に緊張しながら食事をしていました。

 

手もよく上げられました。

「体罰」と「虐待」の間をさ迷っていた気がします・・(笑)

 

忘れもしない、私が「小学五年生」の時の話です。

当時、毎週日曜日に近所の公園で子供たちを集め父が空手の指導をしておりました。

 

後に高槻市の「スポーツ少年団」に所属するまでになるのですが、私も、もちろん毎週稽古に参加していました。

 

ある時、日曜日に野球の試合がありメンバーが1人足りないので、私に助っ人に来てくれないかと言う友達からの誘いがあり、野球大好き少年だった私は、空手の稽古が気になりつつも野球の方に出かけました。

 

恐る恐る家の前に帰り着くと、そこに「仁王立ち」した父がいました。

 

「なぜ黙って空手の稽古をスッポカシタ!」

 

そう言って5分間ほどたたかれ、引きずりまわされ、これでもかっ!というくらい「折檻」を受けました。

その時私は、大人になったら必ずこの「空手」をヤメテヤルそう決意したのです・・・(笑)

 

もう一つ、おもしろいエピソードがあります。

 

私には五つ年下の「弟」がいます。

弟は大阪弁で言う「ゴンタ」(悪がき)でした。

 

弟が中学二年生の頃、友達四人と意味も無く「家出」して、3日間ほど家に帰らなかったことがあります。

4日目に地元の警察に保護され、父が警察署に引き取りに行ったときのことです。

父を恐れた弟は、警察署の2階の窓から再び逃げてしまったのです。

私も「弟」と同じ立場にいたなら、全く同じ行動をとっていたでしょう・・・(笑)

さすがに、その時ばかりは父も苦笑いをしていました。

 

それから数年の月日が流れ、春の訪れを感じる桜満開の頃、父に病魔が襲い掛かりました。

病名は「急性骨髄性白血病」兵庫県西宮市にある有名な「医科大学病院」に入院したのですが、主治医の先生が言うには、この病院に前例が無いほど「悪性」でどの薬を使って治療して行けばよいかもわからない。

そういわれました。

 

それからほとんど毎日、私は病院に通いました。

楽しい入院生活などあるはずもなく、日に日に弱って行く父の姿を見るのが、辛くて仕方がありませんでした。

 

しかし父は言葉に出して「つらい」とか「苦しい」とは決して言いませんでした。

 

五つ股ほどに分かれた点滴用の注射針を打たれ、四つの点滴を同時に打たれて横たわる父

の姿を見たとき、私は堪えきれず病院のトイレで「号泣」したこともありました。

 

何とか「おとん」を元気な体に戻して下さい!

 

私たちの祈りが通じたのか、一定のレベルまで快復し「一時退院」にこぎつけました。

 

退院と同時に父は、鹿児島の阿久根に帰りました。

当時はまだ、祖父も祖母も健在だったので、約一ヶ月間「親子水入らず」で生活していたようです。

 

再入院の為、再び大阪に戻ってきました。

父の「みやげ話」は、

 

「じぃちやんがなぁ、この病気が治ったら阿久根に帰って来い!いうとった。帰ってきたら空手の道場を建ててやるって言ってくれたんや!」

 

その話を聞いたとき、私は胸が詰まる思いでした。

再入院のとき主治医の先生から、お父さんの病状は悪化しています。

風邪を引いただけでも「危険な状態」になるでしょう。

そういわれていたからです。

 

9ヶ月の「闘病生活」の間、私と父は大変仲がよくなりました。

当時私がやっていた「音楽活動」の話「空手」の話や「子供の頃」の話をして行くうちに、思春期に思っていた父に対する「不満」や「誤解」が何処かに消え去り、とても充実した9ヶ月だったように想います。

 

そして、その年、昭和62年12月7日の朝、「親父」は逝ってしまいました。

 

私は泣きました。

人目もはばからず涙がかれるまで泣きました。

 

たった今、目の前で起こった現実を、しばらくの間、受け入れることが出来ませんでした。

 

享年50歳、太く短く生きた父の「人生」だったと想います。

 

それからおよそ10年の月日が流れ、大阪で行われた、第31回全国空手道選手権大会の「祝賀パーティー」で、先代御宗家にお会いする機会に恵まれました。

ご挨拶に伺い父の話をさせていただくと、先代御宗家はハッキリと覚えておられ、山形屋空手部の話、広島硝子空手部の話をされ、私は大変感激いたしました。

 

父が亡くなったことをお話させて頂くと、たいへん驚かれ、お悔みのお言葉を頂きました。

 

そして周りにいらした関西地区本部の先生方に、

「彼のお父さんは、体は小さかったけれども業師だったんだぞ!」

 

そう言って頂き、私は目頭が熱くなるのを抑え切れませんでした。

 

父が「錬心舘」に不義理を働いたにもかかわらず、お褒めの言葉まで、述べていただいた、先代御宗家の懐の深さに、言葉には言い表せない感動を覚えました。

 

私はこの時、自分の一生を通して「少林寺流錬心舘」に恩返しして行くことを心に誓ったのです。

 

私事になりますが、三年前に子供が生まれたとき、「男の子」なら父の名前から一字を貰うことを心に決めていました。

理由は、父のような立派な「男」に成ってほしかったからです。

そして幸いにも「男の子」が誕生しました。

 

父の名前である「隆雄」から雄と言う字を貰い「礼雄」と名付けました。

 

息子は、今はまだ何もわからず無邪気に走り回っているだけですが、息子が成長し、私の話がわかるようになった頃、お前のおじいちゃんは、すばらしい「父親」で、最高の「空手家」だった。

そう話をするつもりです。

 

余談になりますが、姉が「男の子」を出産したとき、名前を「隆」太郎と名付けました。

姉も私と同じ気持だったに違いありません。

 

最後になりましたが、私が再び「錬心舘」に戻ったとき、快く入門を了承していただき、支部長にまで育てていただいた関西地区本部長・平田忠純先生に心より感謝いたします。

 

これから「親子三代」に渡る「少林寺流錬心舘空手道」の「師範」に成ることを目標とし、「日々精進」して参ります。

 

長文にもかかわらず、最後までお付き合いいただいたことを心より感謝いたします。

 

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