金沢の刀正次、鎧の興里
むかしむかし、日本の戦国時代が終わり、江戸時代に入ったばかりの金沢。
加賀前田家三代目の前田利常、退屈まぎれに、とんでもないことを思いついた。
「金沢に過ぎたるものがふたつあり、刀正次、鎧の興里。――そう里謡にも歌われているそうじゃ。それほど優れたものか。面白い、正次の刀と興里の鎧、どちらが優れているか試してみよう」
道楽の過ぎる大名とはまことに困ったもので、さっそく両工にそれぞれの自慢の作を持参させ、試し斬りをやらせることになった。
殿様や家臣の見守る中、興里は白木の台上に自作の兜を据える。
つぎに正次が台前にすすみ、すらりと一刀を抜く。
しばらく瞑目し、身体に気根を充実させ、まさに斬らんとするとき、興里が大声を上げて制止した。
「待った」
気合を逸らされ、不機嫌な正次をよそに、興里はつかつかと進み出、
「兜の位置が気に食わぬ」
とやや直し、また自席に戻った。
正次はふたたび集中しようとしたが、腹立ちや焦燥でどうにも意のままにならず、一喝とともに刀を振り下ろしたが、兜の飾りの部分にわずか一寸ばかり斬り込んだだけだった。
「勝負あった。まさに興里の兜こそ、古今稀に見る名器」
と殿様からお言葉を賜り、褒美の数々を手にして屋敷に戻った興里だったが、終始浮かぬ顔をするのみだった。
「今では里謡も、金沢に過ぎたるものがひとつあり。虎次郎興里、名代の兜。――そう歌うようになりました」
「これで師匠の名も、加賀はおろか、六十余州に響きわたること必定」
などと弟子がお祝いの言葉を述べても、渋面を崩さない。
「あの勝負、わしの負けじゃ。あのとき待ったをかけねば、気合充実した正次の一刀のもと、わしの兜は真っ二つにされていたに相違ない。思えば卑怯な振る舞いじゃ。いずれ斬られる甲冑など、思えばつまらん。それよりは斬る刀を作ろう」
と、五十にならんとする年齢になって刀鍛冶に商売変えした。
転向した理由はそれだけでなく、平和な時代が来て鎧兜の需要が少なくなったこともあるらしい。
それにしても孫が生まれようかという歳での商売変えは例がなく、周囲も頻りに止めたが、興里は頑固に刀を打ち続けた。
古釘などの古鉄を混ぜるなどの工夫を重ね、石灯籠をも両断する切れ味をもった刀を造り上げた。
やがて江戸に出、数年ならずして天下に名を轟かせた。
新選組近藤勇の「今宵の虎徹は血に飢えておる」で有名な、長曽祢興里虎徹入道こそ、この人である。
もっとも近藤の刀は虎徹ではなかったという説が有力である。
実際の虎徹は名高くなりすぎた。
実用品として使うには、値段が高すぎた。
すべて大名や豪商の宝物として珍蔵されるのみで、ついぞ実戦の場に出て人を斬ることはなかった。
名剣ゆえに用いられることなく終わってしまった我が作品を、泉下で興里はどう思っていたのか――。