全日本少林寺流空手道連盟 錬心舘 鹿屋南地区本部 鹿屋東部支部

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資料:じがん流?vs沖縄空手

https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12334932768.html

より引用

上原清吉先生は、本部朝勇先生に大正15(1926)年まで師事したあと、フィリピンに移住した。当時沖縄は経済不況で多くの人がフィリピン、ハワイ、南米など海外へ移住しており、上原先生も先に移住していた兄を頼って移住を決断した。

フィリピンでは、上原先生はダバオに住み、麻の苗栽培の仕事をはじめた。ダバオには当時多数の日本人がいて、また上原先生同様、沖縄県出身者もいた。こうした沖縄県人の中に、N氏という人物がいた。このN氏にまつわるエピソードが、上原先生の著書『武の舞』に書かれているので、以下に引用する。

当時、私の住んでいた近くに日本人の小学校があり、名前をカリナン小学校といいました。私はそこの教頭をしていた沖縄県出身のN氏と親交があり、このN氏は、唐手の使い手ということで知られていました。 ある日のこと、日本人総会で初めて沖縄の唐手術を披露することになったので、N氏が演武する人たちを指導していたところ、それを見て「あんな武術ならば俺は左手の小太刀一本で勝ってみせる」と豪語している人がいました。この人はK氏といって鹿児島県出身の剣道家で古流の剣術も修めており、フィリピンでの剣道の試合で五人抜きを行って優勝し、当時の日本領事から白鞘の日本刀をいただいたほどの使い手でした。このK氏は大きな声を出し、まるで挑発しているのかのような言い方です。これには日頃温厚なN氏も腹を立てたようでしたが、小学校の教頭という立場上我慢をしているようでした。 その場にいた私はN氏が気の毒になり、「小太刀一本で勝てると言われるのなら、私で試してみませんか」とK氏に声をかけました。K氏は私の言葉を受けて『待ってました』とばかりに試合を行うことになり、「左だけで十分だ」という言葉どおり、竹刀を左に構えてジリジリと間合いを詰めてきます。相手は間合いが詰まったと見るや裂帛の気合とともに竹刀を振り降ろしてきました。しかし、竹刀が振り降ろされるよりも一瞬速く、私の手刀が小手をしたたかに打っていたのです。かなり痛かったのでしょう、K氏は腕を押さえてうずくまってしまいました。素手の私に打ち負かされたため、K氏は立ち上がると今度は竹刀を右手に持ちかえて再び挑んできました。しかし、結果は先程と同じでした(96頁)。

本では実名は伏せられていたが、もう時効だと思うので記すと、N氏は仲地清徳氏で唐手は大城朝恕に師事したらしい。K氏はキサノキ稔氏で、漢字で書けば木佐貫稔であろうか。鹿児島には木佐貫姓がある。

仲地清徳

この木佐貫氏は「じがん流」の宗家を名乗っていたそうである。はじめ、筆者がこの話を聞いたとき、「じがん流は示現(じげん)流の間違いでは?」と思った。しかし、上原先生は「木佐貫氏はじがん流と言っていた。間違いない」と話されていた。

鹿児島県なら示現流が有名だし、示現流の宗家は東郷家である。ところが、木佐貫氏はじがん流で、しかも宗家? 正直、「胡散臭い話」だなと思ってしまった。上原先生は嘘をおっしゃる人ではないが、この木佐貫氏は上述のエピソードからしても、自尊心が高く傲慢で、自分を大きく見せようと適当に伝系を盛っているのではないかと思った。古武道の世界には、しばしばそういう人物がいる。

しかし、あるとき、綿谷雪、山田忠史『武芸流派大事典』(1978)を読んでいて、この薩摩の「じがん流」を見つけてしまった。

それによると、漢字で慈眼流と書き、開祖は溝口兵右衛門忠長、薬丸自源流の系統とある。薬丸自源流は薬丸自顕流だと思うので、慈眼流は示現流の分派の系統ということになる。

分派とはいえ、薩摩の由緒ある剣術流派の宗家がフィリピンに移住したのは驚きである。残念なことに、木佐貫氏は戦争後、引き揚げ船が沈没して亡くなったらしい。彼は上の試合のあと、上原先生に入門して、別れ際に御礼にと、領事からもらった白鞘の日本刀を上原先生に贈った。上原先生は、地獄のようなフィリピン戦を、この刀で白兵戦を戦い抜き、何度も命を救われた。だから、木佐貫氏は上原先生にとって命の恩人なのである。

 

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