全日本少林寺流空手道連盟 錬心舘 鹿屋南地区本部 鹿屋東部支部

TEL 090-1083-0941 鹿児島県鹿屋市寿四丁目736番地1

公益財団法人日本体育協会日本スポーツ少年団の加盟団体です。

ブログ

実は存在した?「ティー」

実は存在した?「ティー」

 親見世(おやみせ)は、琉球王国時代、那覇にあった役所である。
今日の那覇市役所であるが、当時の那覇はあくまで那覇四町(東、西、泉崎、若狭町)に限定された区域である。

さて、この親見世の業務日誌が「親見世日記」である。

戦前、沖縄県立図書館にはこの親見世日記が160冊も所蔵されていたのであるが、これらはすべて戦争で灰燼に帰した。

これらのうち、若干の親見世日記が戦前筆写されて、台湾大学図書館に今日まで所蔵されているのであるが、この筆写本が近年出版されたのである。

 

乾隆元(1736)年 親見世日記

 

その中の一つ、乾隆元(1736)年の4月1日付けの記録に、以下の文章が記されている。

 

若狭町村の高嶺筑登之親雲上(1)と金城掟親雲上(2)が刀を持ちだして喧嘩したと金城掟親雲上の与中(3)から報告があったので、すぐに問役(4)の髙良筑登之と仲里筑登之、同じく問役の湖城筑登之を、逮捕のため派遣したが、喧嘩はおさまったので、両人を尋問した内容を報告する。
一、高嶺筑登之親雲上が道端に萱草(かんぞう)を植え付けたので、このほど金城掟親雲上が取り除くようにと申し達したが承知しなかった。通行の邪魔となるため取り除くように高嶺へ申し入れた。本日、金城掟親雲上次男が萱草を取り除いたところ、高嶺が手つくみ(拳)で(金城次男を)突き倒したので、彼の親子(父、兄)の金城が現れ、高嶺の顔を石で殴りつけた。さらに金城親子も一緒になって高嶺を袋叩きにした。
一、右件が鎮まった後、高嶺筑登之親雲上が敵打ちに金城家に踏み入ったので、金城の子ども二人は隠れていたが、高嶺は金城の親と姉を打擲した。このことを聞き及んだので、一大事だと考え兄の金城が刀を持ちだした。しかし、この一件で刀による怪我はなかった。
一、右の通り刀を持ちだして喧嘩に及んだことは一大事である。そこで刀は親見世が没収して、刀を持ちだした金城と高嶺は与中で監督するように命じた。
以上のことを報告する。以上。
四月一日 御物城(5)の崎山親雲上
里主(6)の小禄親雲上

 

これは、若狭町村(現・那覇市若狭)の那覇士族、高嶺と金城の喧嘩の記録である。

面白いのは、金城の兄が「刀を持ちだした」という部分である。

これまで琉球の「禁武政策」や「刀狩り」の説が誤りであったことはこのブログで何度か記事にしているが、ここでも刀の所持を確認できる。

 

さて、さらに興味深い点は、高嶺が「手つくみ(拳)」で金城次男を突き倒した、という箇所である。

以前、「薩遊紀行」(1801)に紹介されている「手ツクミ」という武術の記事を書いたことがある。

以下にその部分を再度引用する。

 

「琉球、剣術、ヤハラノ稽古ハ手ヌルキモノナリ、唯突手ニ妙ヲ得タリト云、其仕形ハ拳ヲ持テ何ニテモ突破リ、或ハ突殺ス、名ツケテ手ツクミト云
右ノ手ツクミノ術ヲ為スモノヲ(薩ヨリナパツメノ)奉行所ヘ召テ瓦七枚重ネ突セラレシニ、六枚迄ハ突砕シヨシ、人ノ顔ナトヲ突ケハ切タル如クニソゲル、上手ニナレハ指ヲ伸シテ突ヨシ」

現代語訳:
琉球の剣術、ヤワラの稽古は手ぬるいものである。ただ突き手に妙を得たりと云う。

その仕方は拳をもって何にでも突き破り、あるいは突き殺すのである。名付けて「手ツクミ」と云う。

右に述べた「手ツクミの術」を行う者を、薩摩より派遣された那覇(ナパ)詰めの奉行所に召して、瓦7枚を重ねたものを突かせたところ、6枚までは突き砕いたそうである。

人の顔などを突けば切ったようにそげる。上手な者になれば指を伸ばして突くそうである。

この1801年の「手ツクミ」という武術が空手の源流武術の一つであろうと書いたが、この語が1736年の「親見世日記」にすでに記載されているわけである。

ちなみに上に引用した現代語訳では「手つくみ(拳)」と、拳(こぶし)の意味であると補足されているが、原文にはこの補足はない。

 

 

高嶺より手つくミニ而突倒候間、……

 

つまり、原文ではこの「手つくみ」が単に拳の意味なのか、それとも武術名なのか不明なのである。

それゆえ、この箇所は「高嶺が手つくみという武術を使って金城次男を突き倒した」と解釈することも可能である。

 

とはいえ、この現代語訳は沖縄学の専門家が他の史料も参照しながら訳したのであるから、ここでは拳と解釈するのが妥当であろう。

しかし、1801年の「手ツクミ」という素手武術の名称が、1736年に拳の意味ですでに存在していたことが証明されたのは重要である。

 

なぜなら、この拳の意味での「手つくみ」が、1736年に素手武術しても存在していた「可能性」は十分ありうるからである。

 

以前、本部朝基の直弟子の山田辰雄氏の文章から、「テージクン(手で突く)」が、手(ティー)と同様、空手の古称としても使われていたという話を記事で紹介した。

そして、沖縄学の真境名安興(1875-1933)が、テージクンの語源は「手で突く」という意味の「テーツクン」であるとする説を記事で紹介した。

そして、手ツクミ→テーツクン→テージクンと音韻変化したのであろうという説を筆者は書いた。

 

それゆえ、19世紀後半に、テージクンに拳と空手の古称の二つの意味があったのであるから、18世紀初頭にも、「手つくみ」にすでにその二つの意味があった可能性は十分ありえるのではないであろうか。

 

ところで、「唐手(とうで)」の語は、さかのぼっても1866年の「尚泰王冊封を祝う諸芸発表会」での記述が最古である。

また口碑では、19世紀初頭に、唐手佐久川が中国から唐手を輸入したという。

 

これに対して、語源的には「手つくみ」は1736年までさかのぼることができるから、もし当時すでに武術としても存在していたのならば、唐手よりも古い素手武術が琉球に存在していたことになるのである。――それが沖縄固有の武術か、日本柔術が土着化したものか、明代の中国拳法が土着化したものか、それともそれらが皆融合したものかは不明であるが……。
注釈:
(1) 筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)。下級士族。従七品。
(2) 掟親雲上(うっちぺーちん)。下級士族。筑登之親雲上より下位。1729年の『位階定』以降、この位階は見えなくなる。
(3)与中(くみじゅう)。与(くみ)は五人組のことで、与中は五人組全体を指す。日本の五人組に準じた組織か。
(4) 問役(といやく)。親見世の下級役職の一つ。出入港した船舶に関する諸業務を担当した。
(5) 御物城(おものぐすく)。那覇士族の最高位の官職。親見世の次官格の者。今日の那覇市副市長。
(6) 里主(さとぬし)。那覇里主のこと。首里士族から任命され親見世の長官格の者。今日の那覇市長。
参考文献

高良倉吉・赤嶺守・豐見山和行主編『國立臺灣大學圖書館典藏琉球關係史料集成 1』國立臺灣大學圖書館、2013年。

  • よくある質問
  • お問合わせ
  • 少林寺流空手道 錬心舘 鹿屋南地区本部 FACEBOOK
  • 少林寺流空手道 錬心舘 総本山 公式ホームページ

▲ページトップへ