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資料:ティーの語源

https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12308614843.html

より引用

 

手(て、方言でティー)が空手の旧称であることはよく知られている。もともとティーと言われていたものが、明治30年代に唐手(からて)になり、それが本土に伝わって昭和初期に空手(からて)になった。

 

おおざっぱに教科書的に書けばこの通りであるが、より細かく見てみると、もちろんこのような単純な話ではない。たとえば、花城長茂先生は明治38(1905)年に「空手組手」という手記を書いていて、空手の文字をそこですでに使っている。この手記の写真は仲宗根源和 編著『空手道大観』(1938)にも掲載されている。

 

「明治卅八(38)年八月 空手組手 花城長茂」(『空手道大観』より)

 

また、「唐手(からて)」の文字も従来の通説的な見解によれば、糸洲安恒先生が明治38(1905)年に沖縄県師範学校で唐手を教えるにあたって使い始めたとされるが、実際にはそれ以前の明治30(1897)年には、唐手(からて)が雑誌『琉球教育』(第53号、1900年8月)で使われていた事実が明らかになっている(『沖縄空手古武道事典』671頁参照)。

 

ではティーはいつごろ使われ始めたのであろうか。知花朝信先生は戦後の長嶺将真先生との座談会で、以下のように語っている。

 

知花 これは私の師、糸数安興先生(大正五年、九十五才で死亡)の話だが、もと沖縄には「手」というのがあった。鬼大城などの武勇伝からもそれがわかる。

 

『沖縄タイムス』1957年9月24日。

 

糸数安興は糸洲安恒の誤記であるが、糸洲先生から聞いた話として、もともと沖縄にはティーがあって、それは鬼大城(うにうふぐしく)こと、越来賢雄(ごえく けんゆう、?-1469年?)の武勇伝からもわかるのだという。するとティーは15世紀からあったのであろうか。

 

ちなみに越来賢雄は夏氏摩文仁殿内の祖先で、摩文仁賢和先生はその後裔である。

 

知花先生が糸洲先生に入門したのは明治32(1899)年であるから、このティーの話は明治30年代に聞いたのであろう。すると、そのころにはティーという用語はあったわけである。

 

また、同じく糸洲門下の花城長茂先生は、有名な「空手大家の座談会」(1936年)で、以下のように語っている。

 

花城氏 昔は空手とは云はず唐手(トウデ)又は単に手(テー)といった、空手空拳で闘ふといふ意味である

 

 

昔とはいつの頃であろうか。仮に花城先生(1869年生)の10代の頃の話だとすれば、1880年代にはティーという用語が使われていたことになる。

 

これより以前のティーの使用例は文献から証明するのは困難であるが、もちろんさらに遡れる可能性はある。糸洲先生(1831年生)がティーという用語を使っていたのであれば、その修行時代の19世紀前半から半ばにかけて、ティーという用語がすでに存在していたと仮定するのは、おかしなことではないであろう。

 

ところで、ティーは単に空手の旧称という意味だけでなく、沖縄固有の武術「沖縄手(ウチナディー)」という意味でも使われる。

 

ウチナディーというものが本当に実在したのかは議論の分かれるところである。もっとも、この議論は、今日の「伝統空手=近代空手」はいつから存在したのか、という問題とも関わってくる問題ではある。

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