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資料:空手の思い出①

少林寺流空手道錬心舘と深いかかわりを持つ空手道中興の祖・喜屋武朝徳先生。

先生が、「空手の思い出」と題して、空手道について私見を述べられた記事を順次紹介させていただきたいと思います。

 

http://www.shidoukan.com/kyan/post_21.html

より引用

 

1942(昭和17)年5月、拳聖喜屋武朝徳著「空手の思い出」、空手道師範喜屋武(きゃん)朝徳(ちょうとく)氏(73)は今年古希月下。

中頭郡読谷山(ゆんたんざ)村比謝河畔に悠々自適の生涯を過し、県立農林校空手教師、五尺に足らざる小体で夙(つと)に喜屋武ミー小の異名をとり尚壮者をしのぐ矍鑠(かくしゃく)として生きた空手の歴史。

 

■空手の思い出■

投稿)喜屋武朝徳

 

私の父朝扶(ちょうふ)は私が幼少の頃より體躯(からだ)が弱くその上矮小なるため兄朝弼(ちょうひつ)と毎日程相撲等を取らして体を鍛(きた)へせしむるを行事としてをりました。

然るに余が15歳になり結髪式終るやその日父親は吾々2人を前にして男として武藝(ぶげい)を踏まなければ一人前の男になれないから是非(ぜひ)武を稽古するやうに説かれ、これから2人に本当の武術を教えるから男らしく苦しくても最後まで頑張れよと謂(い)はれ其の翌日から初めて空手を稽古(けいこ)するやうになりました。当時は空手と言はず唯単に手といふて居り例へば抜塞(ぱっさい)の手とか鎮闘(ちんとう)の手とかいふ風に謂(い)はれて居りました。

父親は身長五尺六寸位に体重が二十貫位もあり力も普通以上で武藝(ぶげい)を好み当時尚家の御側務を致して居りまして、無口で厳格な躾(しつけ)で教養されました。父親の指導はとても荒々(あらあら)しく無理に錬へられる場合は家の隅に隠れ、子供心にも悔し泣きする時もありましたが翌朝(よくあさ)起きると昨日の事は忘れ再び勇猛心を起して兄と二人猛烈なる稽古に稽古を重ねて一年は過ぎました。忘れもせぬ私が十六年の春父親と共に識名薗(しきなえん)に行き風聞にきく沖縄空手中興の師松村宗棍(まつむらそうこん)先生に初めて御目にかゝり父親を介して御指導を受けることが出來(でき)ました。

先生は当時八十歳と覚えておりますが教わった空手の型は五(ご)十(じゅう)四(し)歩(ほ)でありまして今も忘れず持って居ります。松村先生は八十歳の高齢に拘はらず毎朝巻藁(まきわら)を突かれ矍鑠(かくしゃく)として若者を凌(しの)ぐ御容体、眼光人を射り、腕骨の堅き事、鐵石の如き感がありました。先生は熱心に御指導され特に口癖(くちぐせ)の様に武は平和の道である。平和は武に依って保たれると謂はれました事が朧氣(おぼろげ)ながら記憶して居ります。今の時局を見て先覚者の言葉だと思ひしみゞ敬仰の念にうたれて居ります。私は二年間松村宗棍先生の御指導を受け次第に武に對(たい)し趣味が湧いて來ましたが私に取って惜しい事には尚泰候(しょうたいこう)の家老として父が上京致さなければならなくなったので吾々兄弟も父を追ふて上京し東京の尚家(しょうけ)の屋敷内に住家を與(あた)へられて生活する事になり私は漢學(かんがく)を學ぶ爲(ため)富士見町の二松學校において三島中洲先生より學びました。

其の側(かたわ)ら父親と一緒に空手を練磨(れんま)しましたが、父親は厳格(げんかく)な方で冬の雪の降る寒い時は、わざゞ庭に追出して空手をやらなければ朝食も與(あた)へない程でありました。その御蔭(おかげ)で在京九年間一日も風邪にかゝらず弱かった身体も頑強(ぐわんきょう)となり、たのしい青年期を過ごす事が出來(でき)ました。

私が上京して五年目に松村宗棍(まつむらそうこん)先生は八十八才の高齢を以って永眠されましたが御師の死目に會(あ)はず至極残念に思ってをります。 忠孝兩全(ちゅうこうりょうぜん)とは全く先生にあてはまる言葉だと思ひます。

先生より直接指導を受けた人は現在書家であり、畫家(ぐぁか)である吉村仁齋翁と私と二人しか残って居ないと思ひます。私達が上京してから暫くして元那覇署長の比屋根(ひぃやごん)安昂氏も彼の父親と一緒に尚家の屋敷に居た事がありますが往時の事を想ひだし二人出會(あ)ふ時は話する事もありますが五十余年前の昔の夢となって居(お)ります。

私は家事の都合で二十六歳の時に帰省し泊の松茂良興作(まつもらこうさく)先生や親泊親雲上(ぺーちん)先生等に師事しました。當時(とうじ)の先生等は互いに敬愛し合って自分の特技の手以外は弟子に教へませんでした。若(も)し教へて呉れと御願(おねが)ひする時は其の手の特技を持って居る先生へ紹介して互いに謙譲(けんじょう)し合って、實(じつ)にうるはしい感じが致しました。

然(しか)るに世の中はまだゝ開けず武を稽古する者を異端視(いたんし)してをりましたので他人や兄弟にもいはず人目を避けて稽古に行くので一苦労(ひとくろう)でありました。其の上、蛮風(ばんぷう)が残って酒座や色町(いろまち)で盛(さかん)に試(たみし)をやったものでありますから常にその要心をして色町(いろまち)にも行ったものであります。

時代は進み個人的な武士道から国家に御役(おやく)に立つための武士道となり、なほ小さい琉球に武器なき平和な王国の武術たる空手が富名腰義珍(ふなこしぎちん)君が単身上京して廣(ひろ)めた結果は琉球の空手が日本の空手として新しい發展(はってん)を見たのは縣民(けんみん)として富名腰君に感謝し本場は本場としての威厳(いげん)を保つべく指導者も被指導者も一團(いちだん)となりより一層に磨(みがき)をかけて精進(しょうじん)すべきと思ひます。

空手の道に身を投じ七十三年の年。其の間諸先輩より教わった事や自分の信念をにし拙(せつ)文を恥(は)ぢず世間に發表(はっぴょう)し併せて逝いた諸先生の御冥福(ごめいふく)を祈る次第であります。

 

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