全日本少林寺流空手道連盟 錬心舘 鹿屋南地区本部 鹿屋東部支部

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田舎手

【田舎手】

 

http://ameblo.jp/motoburyu/entry-12276712111.html

より引用

 

田舎手(イナカディー)というのは、首里の空手家(糸洲系統)が喜屋武朝徳先生の手を揶揄して言った言葉である。喜屋武先生が首里那覇から離れた読谷村に住んでいて、教える型も糸洲系統とは異なっていたことから、首里の手が田舎に伝わってその過程で型も変形した、と考えられていたのであろう。

 

しかし、実際はどうであろうか。喜屋武先生が読谷村に移住したのは30代になってからで、生まれは首里儀保町(当時儀保村)である。儀保町は本部御殿があった赤平町の西隣で、琉球王国時代は、国頭御殿、具志頭御殿、佐久真殿内、浦添殿内、与那原殿内といった屋敷が建ち並ぶ縉紳の町であった。

 

殿内でも総地頭家と脇地頭家があるが、喜屋武殿内は総地頭家で琉球では大名(デーミョー)と呼ばれた家柄である。これより上は御殿しかない。しかし、御殿の人間は喜屋武殿内を見下すような「愚」は犯さない。

 

上原清吉先生によると、本部朝勇先生は喜屋武先生のことを「喜屋武殿内(ちゃんどぅんち)」と敬称で呼んでいて、チャンミィーグヮーとあだ名で呼んではいけないと言っていたそうである。

 

だから、喜屋武先生を田舎者呼ばわりする人間は、本当の首里の上流階級の出身ではないのである。むしろ、そんなことを言っていると、「お里が知れますよ」ということになる。

 

では、型はどうであろうか。喜屋武先生の師匠も諸説があるが、ご本人が「空手の思出」で語っているところによると、父・喜屋武親方朝扶、首里の松村宗棍、泊の松茂良興作、親泊親雲上である。いずれも首里、泊の著名な唐手家である。

 

そして、「糸洲安恒の改変」の記事で書いたように、むしろ糸洲先生の型のほうが松村や松茂良の型を改変したものであると、我々は今日知ってしまっているのである。

 

このように、明治以降の空手の伝系は複雑なので、何が正統で何が亜流かは軽々に言うことはできない。とりわけ近年、空手史の見直しが急速に進んでいるので、一昔前の常識は誤りであった、ということもありうる。

 

空手家に限らないが、武道の世界では、やたらと自流派を正統と信じきって、他流派を異端、亜流と見下したりする人たちがいる。しかし、そういう人たちが本当に歴史に詳しいのかというと、そんなことはない。

 

空手の型で言うと、「本部御殿のパッサイ」のように、大阪にひょっこり古い型が残っていたりする。筆者などは、案外ハワイや南米に――沖縄や本土には残っていない――古い型がいまでも伝承されているのではないかと思っている。

 

というのも、旧士族が移民としてこれらの地域に渡っていて、戦前現地で唐手を教えていた、というケースがあるからである。最近も松村のパッサイ――多和田のパッサイではない――が、アルゼンチンに残っているかも、という情報を耳にして、筆者は国会図書館に複写依頼をして資料のコピーを取り寄せた。

 

ちなみに、松村先生がパッサイを教えた、という証拠はない。だから、筆者はこうした調査でも先入観はもたない。学問の進歩は常識を疑うことからはじまる。もし「空手史学」というものが将来成立するとすれば、研究者はこのことを肝に銘じておく必要がある。

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