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本部御殿の剣術

【本部御殿の剣術】

 

薩摩藩が琉球士族から武器を奪ったために空手が発達したの通説は、こうした歴史的事実をみると再考の必要性が求められると思う。

 

http://ameblo.jp/motoburyu/entry-12272198154.html

より引用

 

琉球王国時代、王子・按司・三司官といった王貴族が首里城に出仕する際、武器を携えた儀仗(供回り)が付いた。首里城復元に尽力された郷土史家の真栄平房敬氏の『首里城物語』に当時の儀仗の編成が書かれているので以下に引用する。

 

絵(注1)に出仕する王子は平常でも儀仗を列ねて登城した。按司、三司官は1日、15日に朝衣冠束帯に儀仗を列ねて登城した。諸官吏は毎月1日、15日には朝衣冠束帯して出仕した(但し時代により幾分変遷がある)。

 

従王子(按司が摂政になり王子位に叙せられた者)の摂政の儀仗は、八角棒(注、径7センチくらいの太さに長さ170センチくらいの八角棒、赤と黒の面が交互になっている)を肩にかけ立てた二人を先頭に、刀持2人、槍持2人、旗持2人、長柄大傘持1人が続き、摂政は2人かつぎの板輿(木製黒塗り駕籠で壁には銅の釘かくし飾りを施し、簾は薄茶色)に乗り、後方に若干の従者を率い、最後に雨に備えた雨傘を収納した「ワク」かつぎ1人が従っていたという。

 

三司官の儀仗は、八角棒持、槍持、長刀持、長柄大傘持が各々1人で、乗り物は安駄(注、屋根と床以外はすべて竹であまれている。屋根は黒、床は赤茶色、一般の駕籠との相違点は竹の担ぎ棒が屋根の上に取りつけられ、簾にのぞき穴があり、その穴に小簾を取りつけてある)であったという。

 

ちなみに尚泰王代の三司官になった譜久山殿内には沖縄戦の前まで三司官の儀仗道具が残されていたという(譜久山朝直氏談)(注2)。

 

上の引用文には按司の儀仗編成は述べられていないが、だいたい摂政と三司官の中間くらいだったのであろう。

 

以前、「御殿の武器」の記事でも書いたが、本部朝勇先生も大正時代まで、おそらく儀仗に用いたと思われる槍や長刀を所持していた。こうした武器は国王からの拝領品であった。

 

こうした武器類は、戦前まで各御殿・殿内で保管しているところもあったのであるが、残念ながら沖縄戦でことごとく失われてしまった。どこかの御殿か殿内で保存されていたら見つかれば大発見だと思うが、そういうニュースも一向に出てこない。

 

さて、以前紹介したことがあるが、中国の北京故宮博物院に所蔵されている「琉球全図」の肩輿図に、おそらく三司官の儀仗と思われる光景が描かれている。

 

これは1838年に描かれたものだから、尚育王の冊封のときのものかもしれない。そうだとすれば、19世紀前半の儀仗の様子を描いた貴重な絵図ということになる。

 

本部御殿手には剣術も伝えられているが、朝勇先生は「太刀の手(たちぬてぃー)」と方言で呼んでいた。

 

上の絵図では従者が腰に刀を差しているが、朝勇先生によると、本部御殿の当主が首里城に出仕する際には、左右の従者が刀を手にもって捧げていたという。そして、当主自らは腰には刀を差さない。

 

だから、もし不意に襲われた際は刀は従者から受け取るので、右手左手いずれでも抜刀できるように稽古しなければいけない。もし右の従者から右手で刀を受け取って、左手で抜刀できなければ命を落とすことになりかねないので、それで本部御殿手の剣術では左右何れでも抜刀できるように稽古するのである(注3)。

 

なるほどたしかに上の絵図を見ても、駕籠に乗っている人物は腰に刀を差しているようには見えない。こういう知識も御殿殿内の者でなければ、知り得ない知識である。

 

注1 首里城内の評定所以下の行政機関のこと。

注2 真栄平房敬『首里城物語』ひるぎ社、1989年、66、67頁。

注3 上原清吉『武の舞』BABジャパン出版局、1992年、135、136頁参照。

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